日本で漫画家になるために
母国ブラジルで日本のアニメを見て、漫画に興味を持ち、そして日本で漫画家になることを志したモクタン・アンジェロさんのお話を聞かせていただきました。
モクタン・アンジェロさん
聖闘士星矢との出会い、日本で漫画家を目指して
初めて日本に強く興味を持ったきっかけは『聖闘士星矢』でした。
もともと父が彫刻家でしたので、家庭での芸術に対する教育はとても大きく、日頃からイラストを描く習慣がありました。そんな中、私が14歳の頃にブラジルで日本のアニメ『聖闘士星矢』が放送され、作品の内容や表現に感銘を受けて「いつかこのような作品を描ける漫画家になりたい」と思うようになっていました。
そうして日本語と漫画を習う教室に通うようになります。
普段からイラストを描いていたとはいっても、漫画はコマ割りやレイアウト、物語を考える必要があるので、そういったことを教室では学びました。日本語は母国語のポルトガル語とは全く違うルーツの言語ですので、文字や文法もまったく異なります。特に漢字を覚えることには苦労しました。しかし日本語を覚えるたびに、大好きな漫画やアニメがさらに日本語でわかっていく過程がとても楽しく、嬉しかったです。
そうして高校2生の時に転機がきます。
ロータリークラブで、日本への交換留学のプログラムの募集があり、それに応募をします。なんとか面接を通過し、見事日本へ行くことができます。後から聞いた話では実は裏でこっそりと面接前から選考が行われていたようです。初めに皆で集まった懇親会で、振る舞い方やマナー、コミュニケーション能力を測られていたようです。
そうして東京にある駒込学園というところで1年間高校生活を過ごせることになり、日本へ向かいます。
初めての日本で学生生活。宮崎駿さんと会うために
日本の普通の高校生のように授業を受け、日本の家庭にホームステイをしました。日本語はもちろん、文化や習慣を学べたことはとても大きな財産になっています。
この交換留学の中で特に思い出に残っていることは、スタジオジブリの宮崎駿さんに会えたことです。留学残り1週間くらいになった時に友達から「宮崎駿さんに会いに行ってみたら良いんじゃない」と提案され、勢いのまま宮崎駿さんを探すことに。当時はスタジオジブリの住所は公開されていませんでしたが、「風の谷のナウシカ」などの本を出版している住所は調べることができました。その住所にいた受付のおじいさんに自分のこれまで学んだ日本語を精一杯使って「突然で申し訳ないのですが、ブラジルから来ました。宮崎駿さんに5分だけでも会わせてもらえませんか」とお願いをしたところ、おじいさんが「この住所にいます」とメモを渡してくれ、スタジオジブリの住所を知ることができました。
当時はスマホなどありませんでしたから、交番で住所を聞きながらなんとかその場所に辿り着きました。そしてドキドキしながらインターフォンを押します。ピンポンと音が鳴り、目の前に宮崎駿さんが現れ、話をすることができました。そのとき自己出版で同人誌を出していたので、一冊を手渡し「よかったら友達になりましょう」と言葉をいただいて、記念撮影をしました。
普通に考えればただの高校生に会ってもらうということはあり得ないんじゃないかと思います。でも最初からダメだと決めつけずにやってみる、そういうことが大事なんじゃないかとこの経験から考えられるようになりました。「日本で漫画家になる」という夢はいろんな人に無理だと言われ続けましたが「やってみないとわからないじゃないか」と想う心を持ち続けて漫画家を目指すことができました。
ブラジルと日本の美大を経験し
ブラジルに帰国後は美大に通い、アニメーションを専攻します。日本に移住をしたいという想いがあったので、美大に通いながら日本の大学に通うことができる奨学金に毎年応募をし続け、3回目でようやく合格し、東京造形大学の大学院でアニメーションを専攻できることになります。
日本とブラジルの美大の違いとしては、日本は、より作品へのクオリティを求められるなと感じました。ブラジルはお国柄があると思うのですが、技術的に洗練されたものでなくとも、おもしろければオッケーという風潮があったと思います。
卒業するための制作物として短編のアニメーションを作るということがあり、内容が膨大だったので、締め切り直前まで作業をしていました。発表をする前に自宅にある自身の機材で確認した時は問題なかったのですが、いざ大学の設備で確認すると、音響にノイズが入ってしまっていたため、審査員の先生に「その問題が修正されない限り卒業は認められない」と言われてしまいました。家に帰って直し方を一生懸命調べ、期限までに修正をし、なんとか合格をし、卒業することができました。日本のアニメーションのレベルの高さ、クオリティに対する熱意の厳しさを感じたエピソードの一つです。
就職活動をしていた時はちょうどリーマンショックがあり、世間では内定取り消しや会社の倒産が相次ぎました。アニメーション業界も例外ではありません。就職することはとても困難な状況でした。ビザの問題もあったため、このまま何もせずに日本に滞在することもできず...。そんなときにハローワークで目に入ったのが、アレックスソリューションズというITの会社でした。
日本で社会人として働き始め
アレックスソリューションズの社長は留学経験者なので、留学生の気持ちも汲んでくれますし、会社の風土としてワークライフバランスを重視していたので、仕事をしながら制作活動を行えるのではないかと思い、入社を決めました。
最初は営業職として入社をしたのですが、3ヶ月過ぎたくらいに社内の英語講師が必要になったため、英語講師と経理を兼務することになります。そうして2年半が過ぎた頃、会社の方針で国際交流パーティを開くことになり、英語の講師を兼務しながらイベントプロデューサーの様な形で働くようになります。この国際交流パーティの目的としては、会社を幅広く様々な人に知ってもらうということと、参加者をスカウトして、会社にリクルーティングするということがありました。
私は外国人アーティストとコネクションがあったので、彼らの作品の展示会やアクティビティを行うパーティをメインに行なっていました。会社は東京にありますが、大阪までイベントを開きに行ったこともあります。行きは新幹線でしたが、帰りは夜行バスだったため、とても大変だったのは良い思い出です (笑)。
日本で働く中で、やはりブラジルとは社会的な常識の違いがあり、厳しい指導も受けました。例えばブラジルでは人に手を振って挨拶することは良いこととされています。それを社長にしてしまって、上司に怒られたことがありました。このような経験を通して社会人としての日本の常識や礼儀をここで学ぶことができたと思います。
様々な経験を経て、フリーランスとして
そうして5年間アレックスソリューションズで過ごし、退職をします。退職の理由は自分の漫画やイラストで生計を立てられる目処が立ったからです。いよいよ漫画家、イラストレーターとして活動を始めます。
最初はPRESIDENT NEXTという雑誌で掲載を始め、イラスト1点そして2点3点と増えていき、読み切り漫画も描くようになりました。内容は私と日本人のライターが様々なところで取材をし、まとめたものを漫画にします。京都の花街に行って、芸妓さんたちにお話を聞くこともありました。
誇れることがあります。私は日本で漫画家をやっている初めての非日系ブラジル人であること、そして200ページくらいの単行本を出版をし、その単行本が文化庁開催のメディア芸術祭という国際的なイベントで漫画部門の審査員推薦作品に選ばれたことです。
レオノーラの猛獣刑(Amazonにて販売中: https://www.amazon.co.jp/dp/4866691212)
ただフリーランスの漫画家としては山と谷があります。うまく仕事がある期間もありますし、なかなか仕事がない期間もあります。そのため翻訳・通訳の仕事も受け持っていました。
2020年頃からはこの翻訳・通訳の仕事がメインになっています。コロナが流行し始めたこともあって、海外からのニュースが多くなり、依頼も増えました。最近では特にメジャーリーガーの大谷翔平選手のおかげで翻訳・通訳の仕事の依頼が増えています。
現在は自主制作の漫画をゆっくり描いてSNSやイベントで発表しています。いつものことですが、私は今回も漫画家の王道と違う道に挑戦して、かつてブラジルで見た『聖闘士星矢』のように普遍的な作品を目指しています。
留学など、海外に行ってみたいと思っている人へアドバイスをお願いします
きっと皆さんも海外に滞在するとなると、いろんなことを調べていくと思います。しかし十分に調べたと思っても、予期せぬことは起こります。また、過度に期待をしてはいけません。オープンマインドでできるだけ多くのことを受け入れる、そのような気持ちを持って臨むと良いと思います。