“極限のシャイ”だった僕が、アメリカで7年を過ごして見つけた新しい自分
高校卒業後にサンディエゴへ渡り、英語がほぼ話せない、しかも“極限のシャイ”状態からのスタートだったリさん。現地での経験を通じて少しずつ殻が破れ、対話力や人への向き合い方が大きく変わりました。そんなリさんのストーリーをご紹介します。
リジョンリョンさん
姉の背中に影響を受け、アメリカ、サンディエゴへ──

初めて海外に出たのは2018年、ちょうど20歳の頃。行き先はアメリカのサンディエゴ。7歳上の姉が、モナコ、カナダ、アメリカと、国外で生活していたので、海外への興味はそんな姉の影響が大きかったと思います。
高校卒業後は大学に進学する選択肢もありましたが、普通に大学へ行くということに、あまり魅力を感じていませんでした。どこかで「人とは違うことがしたい」と思っていたんです。そんな時に知ったのが、アメリカの公認会計士資格です。高校で簿記を学んでいたこともあり、「日本の公認会計士より取りやすい」「英語が必要」という情報を聞いた瞬間、頭の中で何かがつながったんです。「これを理由に海外へ飛び出そう」と。
アメリカへ渡る前、正直なところ、準備らしい準備はしてなくて。滞在に関わる手続きに関しても、姉の助けを借りました。やったことはビザ申請書の準備と、大使館での面接くらい。しかし、その面接が英語で行われるのに、当時の英語力は限りなくゼロに近い状態。よく通ったな、と今でも思いますが、勢いで乗り切ってしまいました。
そしてとうとうアメリカ、サンディエゴへ渡航し、語学学校に入学します。授業は午前と午後に分かれていて、午前中は中学校レベルの文法を学ぶ初心者向けのクラス、午後は中級の会話クラス。ただ、この午後のクラスが本当にきつかったです。英語はほぼ話せない、しかも人見知りは強い、そのため毎日が“恥をかきに行く時間”でしたね。教室に入るたびに青ざめるような気持ちで座っていました。会話がまったく理解できず、「毎日意味わかんない」という感覚でしたね。
それでも、午前中のクラスでは同じように英語が苦手なアジアの学生に思い切って話しかけ、少しずつ友達ができていきました。語学学校には半年ほど通い、その間に中学レベルの文法を身につけ、最終的には「片言だけど、なんとかコミュニケーションが取れる」くらいには成長していましたね。
コミュニティカレッジ、サンディエゴ州立大学での挫折と成長

コミュニティカレッジに入ったのは、語学学校を卒業してすぐのこと。まずはESLのクラスから始まりました。並行して、一般教養やビジネスを専攻するための前提科目も並行して取っていたんですが、クラスにはアメリカ人の学生もいて。英語ができない自分に劣等感を感じていたため、彼らに「嫌われてるのかな」とビクビクしていましたし、授業で指されるのも本当に怖かったですね。最初の1年半くらいは、毎日不安でした。
そんな状態でも、最初の学期の成績は平均B。当時、自己評価はかなり低かったので、Bでも「意外に頑張れてるかも」とものすごく嬉しかったんですが、姉に「せっかく海外に来て勉強しているのにAをとらなきゃ!」と尻を叩かれて。そこからは気合いを入れ直して勉強しましたね。その後はもちろん全部Aを取りました。
2年ほど経った頃、姉の夫がソフトウェアエンジニアだった影響でプログラミングに興味を持つようになり、専攻をビジネスからコンピューターサイエンスに変えました。専攻を変えたことで卒業が1年延びて、コミュニティカレッジには3年通うことに。
この頃になると、姉の夫(アメリカ人)と3年間一緒に暮らし、毎日会話していたこともあって、英語力は大きく伸びていました。アメリカ人の会話も半分くらいはついていけるようになっていましたね。ただ、精神的にはきつい時期でもあって。コンピューターサイエンスの授業で課題が出たとき、よくわからないことがあったんです。それに対して教授に「それすらわからないならこのクラスにいない方がいい」と馬鹿にされたことがありました。あの一言はかなり刺さりましたね。ほかにも英語ができないことで嫌味を言われることが、多かったなと思います。
コミュニティカレッジを卒業して、サンディエゴ州立大学に編入してからは少し状況が変わりました。難易度が高い環境に移ってからも、前の三年間での苦しい経験が支えになり、さらに英語力を伸ばすことができましたし、精神的にも大人になってきて、人との接し方も変わりました。今までは“子どもとして”問題に向き合っていたのが、大学では“大人として”解決できるようになり、コミュニケーションもうまく取れるようになって、アメリカ人の友達ともフランクに話せるようになりました。いわゆる“学生らしい生活”を送れるようになっていたと思います。
ただ同じ頃、日本の友人たちは就職し始めていて、自分だけまだ大学で苦しんでいることに焦りもありました。「人生終わってるかもしれない」と落ち込む日もありましたね。それでもなんとか耐えて、最終的にはサンディエゴ州立大学を卒業できました。
挑み続けたアメリカ就活──帰国を決めて見えた新しい道

サンディエゴ州立大学を卒業したあと、ビザのプログラムで、1年間アメリカで働くことができました。専攻がコンピューターサイエンスだったので、Webディベロッパーのような仕事に。ただ、いわゆるソフトウェア会社ではなくて、アートスクールがWebサイト制作の担当者を募集していて、そのチームに入れてもらったんです。仕事自体はけっこう楽しかったですね。
さらなるビザ延長を目指し、テック系の会社を中心に就職活動を進めていました。しかし、当時のジョブマーケットは僕のようなエントリーレベルのエンジニアにとって過去最悪とも言える状況でした。というのも、コロナ禍で起きた過剰採用バブルが終わり、その反動で多くの企業が大規模なリストラを行っていた時期だったんです。その結果、これまで大手企業で働いていた優秀なシニアエンジニアたちが大量に転職市場に流れ込み、競争に参加することに。当然、ポジションの数は限られているので、エントリーレベルの採用枠は大きく縮小されました。
気づけば1000ポジション以上に応募していたんですが、面接まで行けたのは10件あるかどうか。1つのポジションに1000〜1万人応募してくるのが普通で、応募者のほとんどは経験豊富なエンジニア。そりゃ勝てないよな、っていう感じでした。
それでも諦めたくなくて、毎日、英語も技術も必死に勉強していました。実際、あと一歩で内定に手が届きそうな会社もあったんですが、ビザの期限に間に合わず……。あれは本当に悔しかったですね。「帰りたくて帰るんじゃないのに」っていう気持ちでアメリカを去りました。正直、無念でした。
帰国が決まってからは気持ちを切り替え、日本での就活に力を注ぎました。その中で、今の会社を見つけたんです。英語が使えて、ITができるということにすごく惹かれました。
今の目標は、とにかくITの経験を広く深く積むことです。フロントエンドだとかバックエンドだとかインフラだとか、そういう枠にとらわれず、システム全体を理解した強いエンジニアになりたいと思っています。それに、日本で働く以上は、ビジネススキルや立ち振る舞い、人としての関わり方も全部身につけたいですね。
7年間の海外生活は、今の僕を作っていると言っても過言じゃないです。一番大きいのはコミュニケーションです。もう、誰と話すときも恐怖が一切ない。アメリカって、高校生でも信じられないくらいプレゼンが上手ですし、一般の人はコミュニケーション能力がものすごく高い。あの環境に揉まれたことで、“人と人”として向き合う対話が自然とできるようになりました。
それと、人への優しさは本当に変わったと思います。自分があれだけ苦しい経験をしたから、「周りの人にはあの感覚を味わってほしくない」「ストレスを少しでも減らしてあげられる存在になりたい」と。考え方も「みんな仲間、みんな友達」くらいに変わりましたし、何より「今日生きるのって楽しいな」と素直に思えるようになりました。
昔は“極限のシャイ”だった自分からすると、今はその悩みの完全に逆側にいる気がします。英語力も含めて、アメリカでの7年間が全部今につながっていますね。
海外へ行こうと思っている人へアドバイスをお願いします
海外に行くうえで一番の壁は、やっぱりコミュニケーションです。でも、そこで大事なのは“英語力そのもの”ではなくて、“相手を思いやる姿勢“なんですよね。実際、言語が変わるだけで、やることは日本語と同じ。まずは今、一緒に生活する人や友達と日本語でしっかりコミュニケーションをとってみてください。
相手のことを理解しようとする姿勢があれば、言語が英語に変わっても伝わります。英語ができる、できないよりも、相手と向き合う気持ちがあるかどうか。それさえあれば、海外生活は乗り越えられます。


