人生大逆転、オーストラリアでのワーキングホリデーが人生の転機に
高校卒業し、就職、ワーキングホリデー、海外で大学に通い、そして再び就職と稀有な人生を歩まれた江本さん。ワーキングホリデーをきっかけに、人生が180°変わったそうです。そんな江本さんの人生逆転劇のエピソードをお聞きしました。
江本 至さん
海外に興味がなかった私が海外に興味を持った理由
学生時代は海外や英語には全く興味がなく、高校を卒業してからは半導体関連の工場に就職をしました。何をやっているかもわからずなんとなく仕事をする日々。そんな中、Windows95というソフトウェアが登場し、社会が大いに盛り上がりました。その波に乗り、パソコン販売の仕事に転身します。
仕事先は秋葉原。海外からの観光客も多く、英語で話しかけられる機会も多くありましたが、当時はまったく英語が理解できませんでした。「英語ができたらかっこいいな」なんて思っている中、当時付き合っていた彼女が留学をしたり、ホームステイ先の人が遊びに来て、海外の人と知り合う機会が増えたり、自然と海外を意識する場面が増え、興味が増していきました。
ある時知り合いに「長期でフランスに行ってみたい」と話をした時、ワーキングホリデーという制度があることを教えてもらいました。当時はまだワーキングホリデーの認知度は低く、その時初めて知りましたが、話を聞いている間「これだ!」と自分自身がワクワクしているのを感じました。聞き終わる頃には行くことを決めていました。
ワーキングホリデーに行くという意思は固まったものの、フランス語もできなければ英語もまったくできないという状態だったため、フランスに長期で滞在するのは大変じゃないかと考えました。そのため、中学高校で習った英語の方がまだマシだと思い、英語圏であるオーストラリアへ行くことを決めます。といっても当時は”This is a pen”レベルの英語力だったので、今思えばフランスでもさほど変わらなかったかもですね。
人生の転機、オーストラリアへワーキングホリデー
初めてのワーキングホリデーは25歳のとき。オーストラリアでの、最初の滞在先はケアンズ。3ヶ月間、昼は語学学校に通い、夜はクラブに行くという生活を送っていました。最初はクラブに日本人と一緒に行っていましたが、みんなだんだん行かなくなってしまいました。その後も1人で通っていたんですが、同じ語学学校に行っているスイス人やスウェーデン人と仲良くなり、英語を使う機会が増えていきました。友達も増え、結果的に語学学校に行くよりも英語が上達してしまいました(笑)。
私が語学学校を卒業した頃、周りの知り合いは帰国したり、ラウンドと呼ばれるオーストラリア国内の旅に出ていました。残された私はどうしようかと思っていた矢先、以前クラブで仲良くなったスイス人の女の子に「ヌーサ(クイーンズランド州サンシャインコーストの北端に位置する街)にいるからこないか」と誘われて、合流することとなります。そしてここからスイス人の女の子とオーストラリアを巡る旅が始まります。
24時間のバス旅でたどり着いたヌーサで合流し数日を過ごした後、他のスイス人も交えて年末年始はブリスベンやゴールドコーストで大騒ぎ。次の街、バイロンベイではオーストラリア本土の最東端があり、朝早く起きて、日の出を見に行ったことを覚えています。バイロンベイ近くのニンビンという街にも行きました。アーティストが住み着く街で、ヒッピーが多く、マリファナの匂いが漂っているような街でしたが、ある意味「外国にきたなあ」、と思える場所でした。そして次の街はシドニー。1/26はAustraliaDayという記念日で、街で花火が上がり盛り上がるのですが、思いっきり寝過ごし見逃してしまいました(笑)。
ここで一旦スイス人の子とは別れ、一人でシドニーの隣街、キングスクロスに滞在をします。炎天下でバックパックを背負い、シドニーの駅から歩いたのですが、地図もなくまた当時はスマホがなかったのでgoogle mapを見ながら、というわけにもいかずユースホテルに辿り着くまで途方もなく歩き続けました。このとき坊主頭だったんですが、強烈な日差しの中数時間歩いた結果、数日後頭の皮が剥けてしまいました。私の人生で頭頂部を日焼けして皮が剥けるというのは後にも先にもこの時だけだと思います(笑)。そしてやっとホテルに着いたと思ったらホテルでは日本人とアルゼンチン人が口論をしていて、英語ができない日本人のため、私がつたない英語で仲裁役となって収めたのは良い思い出です。
その後、再びスイス人の女の子と合流し、メルボルンへ。買い物や古着屋巡りをして楽しい時間を過ごしました。そして次に訪れたのはタスマニアです。車を借りてタスマニアの島中を冒険しました。自然が多くオーストラリアの中でもとても好きな場所です。その後、再びメルボルンに戻りレンタカーでアデレードに向かいました。直線が延々と続く道を走っていると、オーストラリアの広大さを感じました。長いドライブの後に辿りつたアデレードではバロッサバレーというところで、自転車でワイナリー巡りをして楽しみました。当時はワイナリーが何かも知らなかったのでとても新鮮に感じました。
そしてここアデレードでは、およそ3ヶ月間いっしょに旅をしたスイス人の女の子とはお別れをします。彼女はエアーズロックへ向かいその後帰国するとのこと。私はパースを目指します。今考えてもこの3ヶ月間は私の人生の中でもとても貴重な時間だったと思います。いいことばかりではなくケンカもしましたが、この時間がなかったらもっと退屈なワーホリになっていたかもしれないです。ろくに英語もしゃべれない私と旅をしてくれた彼女には今でも本当に感謝しています。
パースまではインディアンパシフィックという電車で向かいました。ものすごーく長い道のりだったことを覚えています。多分人生で一番長い時間、電車に乗っていたと思います。パースではおよそ半年過ごすのですが、パースは長期滞在の日本人も多く、友達もたくさんできました。パースではそれまでの半年間とはまた違った様々な経験をしました。街では無料の交通機関、フリーゾーンと呼ばれる区間とキャットと呼ばれるバスでお金をかけず移動できたのを覚えています。またパース近郊の海は東海岸よりも海の透明度が高くとても綺麗だったのが印象的です。また当時日本では見かけることのなかったタピオカティーも初めて飲みましたが、めちゃくちゃ美味しくてハマりました。そんなパースで半年ほど過ごした頃、ビザの期限が迫ったため一時帰国。ただオーストラリアをとても気に入ったので、帰国してから3週間後に観光ビザで再びオーストラリアのパースに戻ります。早くオーストラリアに帰ってきすぎたため、入管時に怪しまれるなんてこともありました(笑)。すぐに学生ビザに切り替え、再び3ヶ月間、語学学校での生活を経験し、いよいよ完全に帰国をします。
永住権取得に向け、オーストラリアの大学へ
日本に帰国してから3年ほど働いていましたが、想いはオーストラリアにありました。
高卒の私は就職活動において、大卒以上という条件がネックとなり、なかなか理想の職業に就職できないと感じていました。とはいえ日本で大学に通うとなると、やはり現役大学生が多く、年齢的に浮いてしまうのではないかという懸念がありました。そこでオーストラリアの永住権取得ということも視野に入れて、オーストラリアの大学進学を目指します。IELTSの6点以上の取得が必要だったため、もう一度オーストラリアで語学学校に通い、なんとかこのIELTSの水準まで英語のレベルを引き上げました。
そしてサンシャイン・コースト大学に通い、会計を専攻します。なぜ会計かというと、オーストラリアでは永住権取得がポイント制になっていて、120pt稼ぐと永住権を取得することができたからです。会計を勉強すると60pt付与され、永住権獲得へ大きく前進します。
会計の授業は非常に難しく、英語が不慣れな中で難解な専門用語にも悩まされ、電子辞書で単語を調べても専門的すぎて見当たらないということもありました。それでも私は、大学を3年で卒業すること(卒業まで最短で3年)を目指しました。なぜなら、永住権のポイント獲得には年齢も影響し、4年以上卒業にかかってしまうと年齢的な問題でポイントが減少してしまうからです。そのため大学時代は授業、図書館、そしてアルバイトのサイクルで、大学生活を謳歌するというよりも、卒業に向けて無我夢中で頑張っていました。夏休みにはサマーコースに参加し、単位を授業以外で取得する努力も重ねました。
在学時にはすでに会計の仕事も紹介してもらい、永住権申請も行なっていましたが、卒業前に父の体調が悪くなり、急遽日本に戻ることとなります。
日本へ帰国、そして現在
大学は卒業できたのですが、オーストラリアのビザも切れ、結局永住権は取得しませんでした。永住権を獲得するために自分の時間の全てを掛けて一生懸命になりすぎてしまい、疲れ切って灰になってしまいました(笑)。正直永住権もどうでもよくなっていました。だから永住権を取得しなかったことに後悔はなかったです。
そして日本でアルバイト生活を送っていました。そんな時、ITの会社であるアレックスソリューションズに出会います。「バックパッカー募集してます!」ということを全面に出していたため、変わった印象の会社でしたが、英語を使って仕事ができることや、パソコンを使った業務経験があったことから、就職を決意しました。
最初は証券会社のシステム会社に客宅常駐し、アカウント作成や権限付与の仕事に携わります。1~2年経験を積んだ後、会社の研修制度を利用してシンガポールへ。最初の1ヶ月はCCNAというITの資格取得を目指す学校に通い、その後3ヶ月間は現地の企業でネットワーク障害に関する一次受付の対応を行う仕事をしました。その後日本に帰国し、2件のヘルプデスクに関わる現場で働きました。
「5年くらいしたら転職してステップアップしていこう」という会社の方針もあったので、転職を決意。現在は通信会社でネットワークエンジニアとして働いています。8年間のキャリアの中で、初めは運用や障害対応の業務に従事し、その後は開発で新しいサービスを提供する仕事をしています。外資のベンダーともやりとりが発生するので、英語ももちろん仕事で役に立っています。
将来はいわゆるFIREを目指しています。国内や海外を転々としながらワインを極めたいなぁなんて考えています。特にやりたいこともなく、なんとなく毎日が過ぎていったころと違い、今は明確な目的があって生きています。人生大逆転と大袈裟なタイトル(私がつけたわけじゃないです)ですが、ワーキングホリデーで人生が大きく変わったのは本当です。自分の中で眠っていた色んなものが目を覚まして、色々なことにやる気が出た感覚は今でも覚えています。ワーキングホリデーは間違いなく私の人生のハイライトですが、それを超える経験をするためにこれからも貪欲に生きていきたいと思います。
留学など、海外に行ってみたいと思っている人へアドバイスをお願いします
もし少しでも興味があるならば海外に行ってしまった方がいいと思います。なぜなら行かなくて後悔している人に会ったことはありますが、行って後悔したという人には会ったことがありません。言葉とか生活とか将来とか不安はあるかもしれませんが、なんとかなります。悩む時間はもったいないので、ぜひとも海外に飛び出してみてください。どうにもならなくても最後はアレックスソリューションズがなんとかしてくれますよ(笑)。