理由も計画もなかった。でも、海外に出たら人生が変わった

海外へ興味を持ち始めたのは、大学に進んでから。それまで英語にも海外にも関心はなく、「なんとなく進学しただけ」の毎日を過ごしていたという幸本さん。けれど、大学生活の中でふと「違う環境に飛び込みたい」と感じた瞬間があり、20歳のとき、思い切ってカナダへ飛び立つ。

A・Kさん

ハタチ、休学、カナダ留学へ

実は大学に進むまで英語にも海外にも全然興味がなかったんですよ。「海外で生活してみたい」とか「英語を使う仕事をしたい」なんて考えたこともなくて。

とりあえず高校を出て日本の大学には進学したんですけど……正直すぐに違和感が出てきました。なんとなく大学に入学しただけで、毎日がただ流れていくような感覚。そこからです、「外に出たい」って思い始めたのは。明確な理由があったわけじゃなくて、もっと直感に近いものでした。「違う環境に飛び込みたい」「海外の方がおもしろそうだな」って。それで20歳のときに大学を休学して、カナダに半年間留学することにしたんです。

ただ、行って早々に現実の厳しさにぶつかりました。英語はほとんど喋れない、そのくせ“日本人とは喋らない”というルールを自分で決めてしまって、誰ともまともに会話ができない。最初の3ヶ月は本当にきつくて、今でも「あのときは超うつ状態だった」としか言えないくらい精神的に落ち込んでいました。

でも、そこを耐えたことで会話ができるようになって、いろんな国の友達ができていきましたね。スペイン、メキシコ、スイス、台湾、モロッコ、カザフスタン……世界中から来た人たちと過ごして、気づけば毎日が充実していました。

帰国前に、アメリカのポートランドに住む、知り合いの家に1週間だけ滞在する機会がありました。「ちょっと寄ってみるか」くらいの気持ちだったんですけど、あの1週間が衝撃的で。街の雰囲気、人との距離感、流れる時間のゆるさ……全部が驚くほど自分に合っていて、「ここに住みたいな」と自然に思ったんですよね。それが、後に本当にポートランドで暮らすきっかけになります。

日本を離れ、ポートランドへ

一旦帰国をして、思い切って大学はやめることに。そしてポートランド留学へ。

コミュニティカレッジに入学して、最初はESOLといって、英語を学ぶクラスからスタートしました。語彙や文法となるとまだまだ苦手ではあったのですが、コミュニケーション力、ジェスチャー、そしてカナダでの半年間サバイバルのおかげで、英語で生活すること自体には大きな支障はなかったですね。

1年経った頃から、専攻したいと思っていた、ビジネス系のクラスを中心に受講していきました。現地の友達もできて、生活はかなり充実していったんですが、授業が難しかった。特に統計学には苦戦しましたね。

そしてカレッジでの3年間を終え、大学へ編入。授業はかなり難しかったです。試験前は24時間開いている図書館にこもって、勉強していました。ただ大学生活は、正直めちゃくちゃ楽しかったです。友人関係はとても恵まれて。僕のいた街はカレッジタウンのような環境で、どこへ行っても大学の知り合いに会えるような場所だったんです。旅行もよく行きましたね。ラスベガスに弾丸で飛んだこともありますし、いろんなところへ周りました。

アメリカって、人の“違い”が尊重されるんですよ。一つのグループの中に、趣味も価値観も育った環境も人種も全然違う人たちが普通に混ざっていて、それが自然に成立している。それが自分にも合っていたし、素の自分が楽に出せる場所だったなと思います。

そして大学卒業をむかえ、ふと「日本で働くのってどういう感じなんだろう」と思ったんです。だったら一度ちゃんと、日本の働き方を自分の目で確かめてみようと。それで帰国を決めました。

日本で歩きはじめたキャリアの道──飲食、鐵工所、ITへ

日本に帰国して、最初に選んだのは飲食の会社。ラーメン屋の一風堂を運営する「力の源カンパニー」です。本社志望で入社をしました。同期にはロンドン大学卒のドイツ人や、アメリカの大学院を出たフランス人など、18人の多国籍メンバーがそろっていましたね。

ただ、入社した新卒は全員まず店舗配属。そこで店長、エリアマネージャー、ブロック長……と階段を一段ずつ登っていけば、いつか本社という流れでした。でもその道のりは20年コース。「長すぎるなあ...」という気持ちと、体調を崩してしまったこともあり、2年ほどで退職することにしました。

その後は兵庫で友人が経営していた鐵工所に移りました。「何でもやっていいよ」と言われたので、経理をやったり、技能実習生が働きやすい環境づくりに取り組んだり。ただ入社して半年ほど経った頃、母が倒れたという連絡を受けて急きょ帰省することに。しばらく動けない状態だったため、そこで会社を辞め、3ヶ月ほどはほぼ介護のような生活をしていました。

その期間に思い切ってテックアカデミー(オンラインでプログラミングを学べるスクール)に申し込み、Pythonというプログラミング言語を3ヶ月間学びました。それまでビジネス畑を歩いてきましたが、「ITなら将来確実に役に立つ」「自分でアプリやサービスをつくれたら予算削減じゃん」という想いが大きかったですよね。あとは単純に、「面白そうだな」と感じたのも大きな理由でした。

そして転職し、IT業界へ。SESといって、様々なITの仕事に従事できるタイプの会社でした。最初はWebサイトにある3Dコンテンツを完成させるプロジェクトに。海外とのやり取りも多く、3Dモデルの不具合を修正依頼したり、サイトの動作チェックをしたり、会議の通訳をしたりと、かなり幅広い業務を任されました。次は通信会社で、ネットワークの監視運用保守を担当。トラブルが起きた際は、お客様と技術者の間に入って状況を整理したり、復旧に向けて調整したりと、全然違う種類の仕事でした。一緒に働いていた同僚と仕事終わりに飲みに行ったのは良い思い出です。そのあとは、メーカーでPMOと呼ばれる仕事に就きました。書類作成やWebサイトの編集、販社向けのニュースレターの作成などを担当しました。

将来的には、海外と連携が取れる仕事がしたいと思っています。具体的には地方創生に携わる分野です。海外と日本の地方をつなげて、外貨を地方に流し込める仕組みを作りたい。というのも、兵庫の鐵工所で働いていた時に、田舎では人を雇うことすら難しい現状を目の当たりにしました。もし外貨を得て給与が上げられれば、若い人たちが地元に残り、そして伝統や文化も守れるはずです。僕自身、海外に友達が多いので、その人たちに会いに行く口実にもなりますし。自分がやりたいことで地方が元気になるなら、それ以上の仕事はないと感じています。

海外へ行こうと思っている人へアドバイスをお願いします

強く伝えたいことは「安全をしっかり確保してほしい」ということです。初めて海外に行くなら、まずは平和な国を選んでください。知らない人について行くなんてもってのほか。海外でトラブルに巻き込まれるのは“運”の部分もあるので、危険を避ける意識を常に持っておくことが大事です。 そして、もう一つ強調したいのがコミュニケーションの重要性です。海外での生活は、結局コミュニケーションがすべての鍵なんですよ。言葉が完璧に通じなくても、まずは頑張って話してみる。そうやって自分のことを理解してくれる人が増えれば、いざという時に助けてくれる味方も増えて、危険から身を守ることにもつながります。安全面でも生活面でも、コミュニケーションがあるかどうかで、海外での過ごしやすさは大きく変わると思います。