タイ、ミャンマー、カナダを巡って見つけた価値観

幼少期から海外で暮らし、留学、就労を経験してきた山本さんの歩みは、決して一直線ではありませんでした。言葉の壁に苦しみ、日本での進路に悩み、海外で働く現実の厳しさにも直面する。そんな山本さんの軌跡をご紹介します。

山本悠貴さん

原点となった、幼少期の海外生活

小学校5年生のとき、父の仕事の都合で家族そろってタイへ行くことになりました。これが、私にとって最初の海外生活です。通っていたのは現地の日本人学校で、クラスメイトも同じように両親の仕事の関係でタイに来ている日本人ばかりでしたから、環境に慣れるのは早かったですね。友達もすぐにできました。

住んでいたマンションにはプールやテニスコートがあって、学校へは専用バスで通う生活。今思うと、日本にいた頃よりも恵まれた環境だったかもしれません。ただ、最初は食事や気候が体に合わず、痩せてしまった時期もありました。それでも不思議なもので、次第に環境に慣れていきましたし、生活に必要なタイ語も身についていきました。振り返ると、この頃にできた友人たちが、今の人間関係の大半を占めているんです。それだけ濃い時間を過ごせていたのだと思います。

タイでの生活が2年ほど経った頃、再び父の転勤が決まり、今度はミャンマーへ移ることに。環境は一変しましたね。停電は日常茶飯事ですし、慢性的な渋滞も当たり前。娯楽も多くはなく、正直なところ、不便さを強く感じました。

最初はミャンマーの日本人学校に通っていましたが、約1年後、インターナショナルスクールへ転校することになります。この決定は「これからの時代、語学力は武器になる」という両親の考えの下でした。ただ、当時の私にとっては想像以上に厳しい状況が待ち受けていたんです。

学校に日本人は私ひとり。英語力も、日本の中学英語レベルです。授業はもちろん、クラスメイト同士の会話すら理解できませんでした。何を言われているのか分からないまま一日が終わる。そんな日が続き、精神的にかなり追い詰められていましたね。何度も家族会議を開いて「もう限界かもしれない」と話したこともあります。

転機になったのは「自分から動かなければ、誰も何も気にしてくれない」と気づいたことでした。分からないなら、分からないと言う。理解できないなら、質問する。そう腹をくくってからは、授業中も必死で食らいつきました。放課後は英語の本を読み、映画を観て、とにかく英語に触れる時間を増やしたんです。クラスメイトには積極的に話しかけにいく。すぐに楽になったわけではありませんが、少しずつ、確実に生活が良い方向へ変化していきましたね。

不合格から始まった挑戦

高校生になり、一度は「日本で、いわゆる普通の学生生活を送りたい」と強く思った時期がありました。そこで母と一緒に帰国し、日本の高校の編入試験を受けたんです。

結果は不合格。海外の教育カリキュラムは日本と比べると遅れていたということもあり、私の学力不足を痛感しました。はっきりと「今の自分では日本の高校には通用しない」と突きつけられた感覚。正直、かなり落ち込みましたね。

そんな時に、留学をサポートする相談窓口の担当者から声をかけてもらいました。「海外留学という道もありますよ」と。日本に戻るつもりで動いていた分、最初は迷いもありました。ただ「インターナショナルスクールで身につけた英語を、このまま無駄にしたくない」という想いも大きかったんです。ここまで積み重ねてきたものを、簡単に手放してしまっていいのか。その自問が、海外留学を本気で考える決定打になりました。

そして高校2年生のとき、カナダのバンクーバーへ一人で渡る決断をします。現地では、まず1ヶ月ほど語学学校に通い、その後すぐに現地高校へ編入。編入当初は、意外なほど落ち着いていられましたね。というのもインターナショナルスクールでの経験があったため、「何とかなる」という感覚があったんです。

人間関係については、日本人同士で固まるのは避けようと決めていました。せっかく海外に来たのに、日本語環境に閉じこもるのは違うなと。積極的に現地の生徒と話すようにしていたら、それが珍しかったのか、思いのほか早く友人ができました。かなり順調な学校生活だったと思います。

カナダでの学業と就労、そして帰国

高校卒業後は、いきなり大学に進むのではなく、まずカレッジ(専門学校)へ進学しました。カナダでは、カレッジから大学へ編入するルートは珍しいものではありません。私の場合も、学力面などを考慮すると、この流れが一番現実的だったと思います。

そこでは心理学を専攻しました。人の心や考えを理解できるようになりたいという想いがあったからです。その関心は変わらず、大学へ編入した後も、同じ専攻で学び続けることになります。

そして大学編入直後、コロナが直撃しました。大学は閉鎖され、対面授業の再開も見えない。やむなく一時帰国し、日本で生活しながらオンラインで授業を受けることに。カナダは日本の裏側なので、昼間はアルバイト、夜中の1時から朝の5時頃までオンライン授業という生活リズム。教授やクラスメイトには驚かれましたね。そしてこの生活を1年ほど続けます。

その後、対面授業が再開し、カナダのナナイモという街に移りました。海と山に囲まれた環境で、どこか地元の神戸に似ているんです。不思議と落ち着く場所でした。

大学卒業後は、2年間の就労ビザを取得し、再びバンクーバーへ。働いたのは飲食業界、接客の仕事です。当時は、永住権の取得も現実的に考えていました。マネージャークラスを目指せば永住権へのポイントが加算されるので、必死で働きましたね。ただ、職場環境は決して楽ではありませんでした。精神的にかなり追い詰められた時期もあります。それでも、「ここで投げ出したくない」という気持ちが勝ちました。ビザが切れるまでの2年間、何とかやり切ったんです。この経験を通して、海外に長く住む日本人同士だからこそ生まれる、人間関係の難しさも学びました。

2年間働くなかで、改めて気づいたことがあります。「やっぱり、自分は日本で暮らしたい」という想いでした。ずっと心のどこかにあった感覚が、はっきりした瞬間だったと思います。そうして日本に戻ることを決断しました。

帰国後の新しい道

仕事探しは、意外なところから始まりました。バンクーバー関連のネット掲示板を眺めていたときに、今の日本でのITの仕事を見つけたんです。新たな分野ではありましたが、自分の中ではそれほど大きな抵抗はありませんでした。むしろ、「今までと違うことに挑戦してみたい」という気持ちのほうが勝っていましたね。

現在は大手通信会社でネットワークの監視や保守を担当しています。仕事内容は、いわゆるヘルプデスクに近いものです。お客さまから状況をヒアリングし、どこに問題がありそうかを切り分け、必要に応じてお客さまや作業員と調整をする。そしてチーム間の連携も欠かせません。

技術的な知識は、正直まだ勉強中です。ただ、カナダでの経験を通して身についた対人スキルや交渉力は、今でもかなり役立っています。作業員の方と、仕事の話だけでなく世間話も交えながらやり取りすることで、自然と距離が縮まっていて。気づけば職場では「人気者だね」と言われることもありました。さらにはチームの業務改善にできる限り取り組み、それをきちんと「実績」として残したいと考えています。次にステップアップするうえでも、そこは大切にしたい部分です。

自身の根底にあるのは、両親への感謝と、それに伴う責任感です。これまで多くの時間とお金をかけてもらった分、その期待に応えられる人間でありたいという想いがあります。だからこそ、仕事は単に生計を立てるためのものにとどめるのではなく、少しでも社会の役に立てるような形で向き合っていきたいと考えています。

海外へ行きたいと思っている人へアドバイスをお願いします

特に大事だと思うポイントが三つあります。
まず一つ目は、「なぜ海外に行きたいのか」をはっきりさせることです。理由が曖昧なまま渡航してしまうと、結局はお金だけがかかって、何も残らない。かなり厳しい言い方になりますが、目的が見つからないのであれば、無理に海外へ行くより、日本で普通に働いたほうが本人のためになる場合もあると思います。だからこそ、出発前に「自分は何を求めているのか」を、納得いくまで掘り下げた方が良いですね。
二つ目は、「中途半端な気持ちで臨まない」ことです。海外に行くには、それなりの覚悟もお金も必要になります。行くと決めたなら、現地の環境に飛び込む覚悟が必要です。私自身、ミャンマーのインターナショナルスクールでは、現実を突きつけられました。考え方を切り替えなければ、あの環境では生き残れなかったと思います。
そして三つ目は、「目的が定まったら、とことん楽しむ」ことです。せっかく海外にいるのなら、遠慮せず、吸収できるものは全部吸収してほしい。目的意識を持って過ごせば、自然と視野も広がりますし、知識や経験も積み上がっていきます。その一つひとつが、帰国後の人生や暮らしを、確実に豊かにしてくれるはずです。
海外経験は、行っただけで価値が生まれるものではありません。ただ、自分なりの目的を持ち、強い意志で向き合えば、必ず何かを持ち帰れます。