英語とスポーツに導かれて──回り道の先に見つけた現在地
幼少期を海外で過ごし、さらにアメリカの大学でジャーナリズムを学んだ松本さん。スポーツライターとしてさまざまな競技を取材。さらにメジャーリーガーの通訳としてチームに帯同し、現場の最前線を内側から支えました。現在は帰国し、スポーツに関わる活動を続けている松本さんのこれまでのキャリアと転機をご紹介します。
松本重誠さん
原点は幼少期。英語とスポーツで進む道

オーストラリアでの幼少期
初めて海外に行ったのは、5歳のとき。父の海外赴任に伴って、家族でオーストラリアへ移住したんです。現地の小学校に通い、10歳までを過ごしました。渡豪当初は日本語しか話せず、英語はまったく分からない状態。その戸惑いは、1年ほど続いていたと思います。それでも、週に数回ESL(第二外国語としての英語)のクラスに参加したり、友達と遊んだりする中で、少しずつ環境に慣れていきました。ある日、周囲の会話の中で、ふと単語の意味が分かった瞬間があったんです。そのときからスポンジが水を吸収するみたいに、一気に英語が入ってくるようになりました。
日本への帰国と学生生活
小学4年生で日本に帰国することになったときは、正直かなり怖かったです。日本の勉強についていけるのか、特に漢字が読めるのかという不安が大きくて。実際、帰国後の1年ほどは苦労しました。漢字が分からない、日本語も思うように使えない。そんな状況に対して、周囲から興味本位のからかいを受けることもありました。それでも担任の先生が根気よく向き合ってくださり、少しずつ漢字が読めるように。日本語の教科書も読めるようになって、友達とも喧嘩をしながら関係を深めていく。そんな日々の中で、いつの間にか学校生活にも自然と馴染んでいました。
大学時代と留学への決意
大学は獨協大学外国語学部英語学科に進学しました。将来を考えたときに「得意な英語をもっと伸ばしたい」という想いがあったからです。ただ、実際の大学生活はというと、ゴルフサークルや飲み会に夢中で...。転機が訪れたのは、大学4年生の就職活動です。面接で「英語とスポーツが好きです」と伝えても「うちではないですね」と断られることが続きました。そんな中、ふと思い出したのが、小学生の頃に憧れていた「プロ野球の通訳」という夢です。実際にプロ野球球団へ手紙を書いて応募しましたが、結果は不採用。「英語ができるだけでは足りない。専門知識が必要」という周囲のアドバイスがきっかけで、そこからスポーツに関わる道として、スポーツライターを目指すようになりました。
夢を追ったアメリカ生活
オレゴン大学での留学生活
留学を決めたのは大学4年生の8月。もともとは入学前、父と「大学2年で1年間留学する」と約束していました。ただ、実際に動いたのは4年生。無理を承知で願い出た結果、「2年間ならいい。ただし卒業できてもできなくても2年で終わりだ」と条件付きで認めてもらいました。そしてジャーナリズムを学ぶために進学したのが、アメリカにあるオレゴン大学です。その2年間は、専門課程に絞ってかなり集中していましたね。無事に卒業できたときは、正直ホっとしました。
卒業後の試行錯誤とキャリアの始まり
大学卒業後も、すぐには日本へ帰りませんでした。1年間の「お試しビザ(OPT)」を利用して、大学のあったオレゴン州ユージーンのカメラ会社に就職したんです。求人票には「スポーツフォトグラファー」と書かれていました。ただ、実際の仕事はというと、学生たちの卒業アルバム用のスポーツ写真を撮る仕事が中心でしたね。現場で経験を積むことはできましたが、ここで一つ壁にぶつかります。ビザの更新を相談した弁護士から、「その仕事内容では、日本人がビザを取るのは難しい」と。そこで改めてライターとしての道を模索し、ロサンゼルスにある日系雑誌社から声をかけていただくことになります。
ロサンゼルスでのライター時代
当時は9.11の同時多発テロの影響下にあり、ビザをめぐる状況も大きく変わっていました。11月頃に帰国し、日本でビザの発行を待つ日々。審査は大幅に遅れ、ビザが下りるまでには約1年かかりました。先の見えない時間が続き、不安を感じる日々だったのを覚えています。それでも最終的には再びアメリカへ渡ることができました。入社した雑誌社は、編集部が3〜4人ほどの小さな組織。ラーメン店の食レポから映画評論、占いコーナーまで、任される仕事は多岐にわたりました。スポーツ専門ではありませんでしたが、文章を書く力が徹底的に鍛えられた環境だったと思います。
その後、勤務先の経営が厳しくなり、今後の進路を考えるように。そんな折、取材を通じて知り合ったカメラマンから声をかけてもらい「オールアメリカンスポーツ」というウェブマガジンへ転職しました。MLBに加え、アメフトやバスケットボールなど幅広い競技を取材する中で、特に印象に残っているのが総合格闘技の記事です。当時のアメリカでは評価が定まりきっていない競技でしたが、現地取材を重ねながら「いずれ大きな存在になる」と書きました。それから数年、総合格闘技が実際にメジャースポーツとして認知され始めた頃、その記事を見つけた人から「先見の明があった」と評価していただきました。その一言は、今でも強く心に残っています。
メジャーリーガーのマネジメントと帰国の決意
ライターの仕事を続ける一方で、斎藤隆投手や福留孝介選手といった日本人メジャーリーグ選手の生活サポートにも関わるようになりました。インターネットの開通手続き、家族の送迎、パスポートの申請など。32歳を迎える頃、その状況に、少しずつ違和感を感じるようになっていました。決定的だったのは、父の言葉です。父はロサンゼルスまで来て、こう言ったんです。「32歳にもなって、ワンルームでこの生活を続けるのか。日本でサラリーマンとしてやり直すなら、今が最後のチャンスだぞ」と。同時に、仕事への葛藤もありました。本来やりたかったのは「書くこと」。それなのに、気づけば選手のマネジメント業務に時間を取られ...。その現実に「このままでいいのか」という想いが強くなってきて。またビザの問題も、重くのしかかっていました。当時は特別ビザで滞在していましたが、すでに一度更新しており、これ以上アメリカに残るには永住権を取るしかない段階。加えて、ライターの仕事だけで生活を続けるのも、正直楽ではありませんでした。もともとは「2年間の留学」という約束で始まったアメリカ生活です。それが気づけば、10年――。いくつもの理由が重なり合い、ここで一度、区切りをつけようと、帰国を決断しました。
迷い続けた先にあった、次の挑戦
日本への帰国とIT業界での苦悩
帰国後に入社したのが、アレックスソリューションズというITの会社。ブリッジエンジニアとして配属され、製薬会社のサポート業務を担当しました。海外拠点と日本拠点のやりとりを支える “橋渡し役”です。ITの専門知識がほとんどないこともあって「自分は本当に役に立てているのか」と、苦悩しました。周囲に貢献できていない感覚が強くて、毎日が苦しかったです...。お昼休みに、会社の上司へ電話をかけて「もう、やってられません」と泣き言を言ったこともあります。それくらい追い込まれていた時期でした。
再び渡米、メジャーリーガーの通訳としての挫折と栄光
状況が大きく動いたのは、2011年の年末です。以前の同僚からの誘いで、突然メジャーリーガーの通訳の話が舞い込んできました。そして2012年、アリゾナ・ダイヤモンドバックスに所属となった斎藤隆投手の通訳として再びアメリカへ渡ります。ただ、このシーズンは本当に厳しかった。シーズン前のキャンプ中に斎藤投手が怪我をしてしまい、さらにチームとのコミュニケーションもうまく噛み合わず、振り返っても「人生ワースト3に入るほどしんどい一年」でした。2012年シーズンの最後、アリゾナのアパートを引き渡すという最後の仕事を終えて別れる際に、斎藤投手から「CJ、お前には合う選手がきっといるよ」と。(※CJは当時の私の愛称)その言葉が布石だったのか、斎藤投手の推薦で、2013年からはボストン・レッドソックスの上原浩治投手、田澤純一投手の通訳を務めることになります。2013年のボストンは、忘れられない年ですね。ボストン・マラソンでのテロ事件を経験し、街全体が重い空気に包まれる中、チームは昨年の最下位から一気に世界一へ。まさに「地獄から天国」でした。
その後は上原投手とともに、シカゴ・カブスでも活動しました。
帰国後の「迷走期」と現在の大使館勤務
上原投手の巨人復帰に伴い、再び日本へ戻ることに。ただ、帰国後もすぐに道が定まったわけではありません。娘の誕生もあり、生活を優先して、リモートでの仕事を提案してくれたアレックスソリューションズに期間限定で復帰します。その後、高級車の販売とレースを行う会社へ転職するものの、3か月で退職。さらに工務店へ転職するなど、今振り返ると「迷走していたな」と思います。ただ、その時間がなければ今はありません。工務店での業務を通じて、大使館の工事に関わり、現場に出入りする日々が続きました。あるとき、大使館側の工事担当者から、ふと声をかけられたんです。「松本さん、うちで働けばいいじゃないか」と。工務店での仕事がきっかけで、思いがけず次の扉が開きました。今は、大使館で外交官のスケジュール管理や予算管理、工事業者との調整などを担当しています。働き方も安定し、何より「家族第一」で生活できていることが、一番大きいですね。
将来の展望 — 日本のスポーツ文化変革への挑戦
大使館での業務のほか、個人事業主として、「バガボンドスポーツ」という屋号を掲げ、講演活動なども行っています。将来の大きな目標は、日本の子どもたちのスポーツ環境を変えることです。日本では、一年中ひとつの部活に縛られるケースが多いですよね。でも、アメリカのように、季節ごとに競技を変えられる「シーズン制」があってもいいと思うんです。秋はバスケ、春は野球。もっと自由にスポーツを楽しめる環境です。一つの競技に固執することで、試合に出られない不満が生まれたり、燃え尽きてしまったり。そうやって、スポーツ自体を嫌いになってしまう子どもを、少しでも減らしたいと思っています。今は地元の柏市を中心に、小学生の段階から複数のスポーツを経験できる仕組みをつくれないか、専門家や行政と相談しながら構想を進めているところです。
海外へ行きたいと思っている人へアドバイスをお願いします
海外に行くこと自体は大きな経験になりますが、なんとなくでは得られるものが限られてしまいます。何を学びたいのか、何に挑戦したいのかを決めて踏み出すこと。そうすることで経験の濃さは大きく変わります。たとえ思い描いた結果に届かなくても、そこで必死にもがいた時間や、支えてくれた人との出会いは必ず残りますし、海外に出ることで、日本や自分自身を客観的に見られるようになります。その視点こそが、後の人生を支えてくれるはずです。

